小説『海風』第三話




「きたきたきた!太陽!」

彼は楽しそうにはしゃぐ。僕は眩しいなと思いながらも、山の間から光を届けるあの星から目をそらすことはできなかった。

「旅の始まりにふさわしいだろ?」

「うん。」

僕はベンチに腰を下ろす。正直に言って疲れた。
とんでもない時間に起こされて、歩かされたのは高い丘。真っ暗な坂道をスマホのライトで照らしながら歩いた。彼は自前のヘッドライトを得意げに頭につけて探検気分。こんなに早く貴重な充電を使わされることになるとは。
それでも太陽は美しかった。
僕の周りの木々は生気を取り戻したように鮮やかな緑を輝かせている。それは子供がおもちゃを買ってもらったときの瞳の輝きに見えた。

朝になって日が昇る。そんな当たり前のことに人が感動するのはなぜだろう。
太陽は毎日休まずに昇り続ける。正確には僕ら地球側が直視したり顔を背けたりしているだけだけれど、特別なことじゃない。

遺伝子のせい。
もしかしたらそれは、人によっては「美しい」とは違う感覚なのだろう。
この感情の名前は人それぞれで、驚きや喜びかもしれない。でも心が動くという現象は存在していて、ひょっとしたら人間以外にも共通なのかもしれない。
だってきっとこの緑たちも太陽は嬉しいはずだから。

「じゃ、いこうぜ!」

「早くない?もう少し見ていたいな。」

「もうバテたわけ?運動不足め。生命の生命たる所以は動きだぞ。」

「この景色を味わって考えるという心の動きが僕の命。」

「そりゃあもちろん。でも体も動かさないと心も腐る。時には休憩も必要だけど、寝て起きたばっかりなんだから大丈夫だろ。」

「誰かさんのせいで4時間くらいしか寝れてない。」

「やると決めたら無心でやるのさ。それが流れに乗るコツ。フローとかっていうだろ。起きて歩くと決めたなら、眠いとかそんな考えはしない。良い意味で諦めるんだ。いつだって理由はいくらでもある。やる理由もやらない理由もな。そんなのは気にしないでただやる。人が動く時にはいつだってそうやって意思決定をして、他の選択肢を切り捨てて動くんだ。そして後悔をしないために良い意味で諦める。仕方ないと受け入れる。だから、行くと決めたなら行くのさ。」

「じゃあ今は休むと決めた。」

「マジかよ!ま、俺はそんな細かいことはマジでどっちでもいいんだけどね。」


確かに僕がこの旅を始めたのも、やると決めただけ、ある種の直感だった。
彼女が好きだった海へ行って海風を浴びる。それだけ。何の意味があるのかも、何の目的も意識下では考えていない。
強いて言えば、僕が彼女を愛していたのか知りたかったのかもしれない。

愛するとは何だろう。僕が彼女に抱いていた感情に名前を付けるとしたら何だろう。それはとても入り組んでいて、一つの言葉で言い表すのはあまりにも陳腐に思えた。
確かに彼女はあの時、僕に向かって「愛している」と言った。彼女が意味している愛とは何だったのか。それが僕に理解できる日は来るのだろうか。そもそも、日常で交わしつづけている言葉たちは本当に僕たちの共通認識として成り立っているのだろうか。僕が思う美しいは誰かにとっても美しいのだろうか。

きっとそうではないのだと思う。そう考えると、なんだかこの世界の全部が曖昧で、何か得体のしれないものにしか思えなくなる。サルトルが『嘔吐』で書いていたブヨブヨしたものに見えてくる。

「言葉ってさ」

「おう、またなんかごちゃごちゃ考えてるって顔してるぞ。」

「寝不足なだけ。」

図星をはぐらかして話を続ける。

「言葉って曖昧だよね。僕が今太陽を見て美しいと感じているけど、これは君にとっての美しいとは別かもしれない。」

「そりゃそうだ。言葉なんて人が後付けで型にはめただけだし。」

「うん。でもそうだとしたらこの会話自体だって成り立っているのが不思議なんだ。何かを本当の意味でお互いに共有することは本質的には無理なんじゃないかって思わない?」

「無理だね。人なんてそれぞれの見てる世界でしか生きられない。俺にとっての赤とお前にとっての赤は違うかもしれないけど、そんなのはどうでもよくて、お互いにそれが赤だということで話せるならいいんだよ。お互いが話してそれはそういうもんだと決める。それが言葉だろう?だから新しく誰かと話すときには、その誰かと新しく言葉の意味を決めなくちゃいけない。本来ならね。もしくは自分にとっての言葉の意味を相手に伝えるか。」

「でも伝える言葉自体を別の言葉で伝える為に意味を合わせなくちゃならないとしたら、やっぱり僕らは一生分かり合うことなんてできやしない気がしてしまうけれど。辞書の中でただお互いの言葉を行き来してループしてしまうだけじゃないか。」

彼がめずらしく沈黙する。まっすぐに太陽を見つめている彼の目は、深く光を取り込んで反射しない深い深い海のように見えた。

「本質的に共有することはできない、か。それでも受け入れるしかないだろうな。俺らの中にある言葉なんて世界の本の断片で、自分の感情すらまともに表すことはできないんだから。それでも前に進むためには、生きるためには、絶対に分かり合えず理解できないことを知ったうえでも、できる限り分かろうとすることを示す必要がある。言葉だけじゃなく態度や表情も含めて。」

「僕は、絶対に理解できないとわかっていることを理解しようとするのは、なんだか意味のないことに思えてしまうんだ…」

きっとそれが彼女にも伝わったんだろうな、そう言いかけて止めた。結局僕は彼女の言葉を、愛を理解しようとなんてしていなかった。どこかで諦めていたのだ。僕なんかが人を愛せるはずもないと決めつけていたし、理解できるはずもないのだと。

「意味なんてのは自分でつくるもんだけどな。」

彼は誰に言うでもなく呟く。それは僕に発せられたようでいて、独り深い渦に飲み込まれて沈んでいく船のようでもあった。でも確かに僕は彼の言葉を理解した気がした。言葉にはできないどこか深いところで。

「もういいだろ、行こうぜ。そんなことばっかり考えてたらせっかく昇ったお日様も愛想つかすぞ。」

この旅に意味を付けるなら何だろう。それはきっと海を見た時にわかる気がする。

「そうだね。とにかく海を見なくちゃ。」

「そうこなくっちゃな。レッツゴ!」

僕らはまだ歩き始めたばかりだ。海につくのはいつになるだろう。そんなことは考えなくていいか。

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